日々を楽しく大切に。好きなもの 好きなこと おでかけ。。そんな日常を綴っていきます。


by さくら
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最期の日を迎えるまでのこと

おととしの10月 叔母の病気が見つかり 治療をしなければ余命3か月と告げられました。
その日から 旅立ってしまう12月17日までのこと 残しておきたくて またこれからの日々の
暮らしを大切にするために書くことにしました。。
母のすぐ下の妹である叔母の病気は手術はできない場所にできていて 当初叔母は
治療をしても完治はしないし つらい治療になるので治療はしたくないといっていました。
でも息子である私のいとこノブと叔父の強い希望で 治療をうけることになりました。
3日くらい入院して 抗がん剤治療を受けて 退院して普通の生活を送る。
そんな日々が去年の10月まで約一年間続きました。
治療を始めたころは元気でみんなで三朝温泉に行ったり 京都に行ったり 合間合間に
気分転換をしていましたが だんだん 少しずつ少しずつ 病は体力を奪っていきました。
10月に入院する際 叔父に「お父さん もう私帰ってこれんかもしれんわ」そう言ったそうです。
その言葉通り 入院すると動けなくなってしまいました。 骨に転移したらしいとのこと。
寝たきりになったのと抗がん剤の為か 胸に水が溜まりだし ちょうど私が沖縄に行く予定の前々日 
11月下旬ひどく容体が悪くなり キャンセルに至ったのでした。
胸水を抜いて いったん持ち直したのですが もうほとんど食べることもできなくなり 
主治医から もうこれ以上の治療はできないと告げられました。
よく知らなかったのですが 治療をしないと 病院にはおいてもらえないらしく ホスピスへの
転院を勧められました。 
全く動けないのに 家に連れて帰るかホスピスへ行くか。。選択を迫られました。
主治医チームの一人の若い女医さんから 希望のない厳しいことをきつく言われて がっくりと
して帰ってきた11月から毎日付き添っている 70代半ばの叔父と 姉であるうちの母。
二人を見ているのもかわいそうで そのあたりから 私も病院に行き話がある時はなるべく
同席させてもらうことにしました。
(私なら言い返せるので((笑))
叔母の希望は 「眠るように逝きたい」ということ。 
ホスピスは結構な金額がかかるので叔母はそれをとても気にしていましたが 何より叔母の
希望を叶えるため また家には到底連れて帰れないため転院することになりました。
信頼していた メインのドクターや いつもなごませてくださっていた たくさんの看護婦さんと
お別れするのはもう動けない叔母にとってとても心細かったに違いありません。
でも今の法律は 治療をしなければ 動けない状態でも 病院にはおいてもらえないそうです。
患者の心はおいて行かれるのだなぁと 叔母の気持ちを考えると 胸がぎゅ~っと痛みました。
ガンは今や3人に一人はかかるといわれているのに 私たちは選択肢はおろかあまりに
いろんなことを知らな過ぎるんだなと痛感しました。
家族とホスピスの先生との面談は 優しい先生でしたが きっぱりと「これからは日ごとに病状は
悪くなることを覚悟してください。1つのがん細胞が2つになるスピードと 1万個が2万個になるの
は同じスピードなんですここでは病気を治す治療はしません。 一時的に元気になってまた治療
を。。と思うかもしれませんがそれはしません。あくまでも本人の苦痛をとるための治療です 病
状からすると年を越せるかどうかといういうところです。」と。
残された日々が短いことを 思い知らされました。
転院。 部屋の前の共有のくつろぎスペースは 大きなクリスマスツリーが置かれて大きな本棚
があり病院というより ちょっとしたホテルのようでした。
毎日母と叔父が付き添いましたが 日ごとに弱っていくのは目に見えてわかりました。
抗がん剤が抜ければ 少しは元気になるのでは。。と思っていた私たち でも抗がん剤は
ほかのところは弱らせてもがんには効いていたのだと思い知りました。 
唯一食べられた ヨーグルトやゼリーも受け付けなくなり モルヒネの副作用で 氷をほしがりました。
そのたびに看護婦さんを呼ぶのは申し訳ないというので なんとかならないかと 私たち容器を
探しに走り回ったり寝返りも打てないため 寝たままで飲めるお水容器を探しまわったり。
でも結局見つからなかった。。 意外とないものなんですね。
寝たきりの人が自分で使える道具って。

良かれと思って何事も本人の意思に任せます。。といったため 院長先生は本人に向かって
「あと1週間がヤマなので 最後の時間を大切にしてください」なんて言っちゃうし なかなか
意思の疎通というか 患者側の思いと 病院側の思いが食い違うことがあって 難しいなと
痛感したこともありました。
多分叔母のいう 眠るように。。は痛みだけではなく もう余命がないことはわかっていても 
それがいつということは知りたくなかったのでは、、と私は思うのですが。

1週間がヤマということで 東京にいる私のいとこである次男アキを帰らせるということになった
のですが アキ 何とこの時期にいい大人ですが3日ハシカにかかってしまい こちらの先生から
ドクターストップ。 
でもここで私たちは 奇跡を見ます。
もう 自力で電話などできる状態ではなかった叔母が 朝うちに電話をしてきて アキが子供の
ころ ハシカの予防接種を受けたか母子手帳を探してくれというのです。
同じ電話を 叔父と お隣の同世代の子供がいる奥さんにもしていたそうで。
母の子供を思う力 いくつになっても 子供に対する親の思いは ものすごいパワーがあるの
だと思いました。
アキが帰ってくるまで叔母はもってくれるのだろうか、 祈るような気持ちでした。
叔母が40歳で生んだ 次男アキは 自由奔放で 叔母は病気になっても決してアキを呼んだ
りせず 私たちにも「いよいよって時にならないと呼ばないで」と言っていました。
でも 私のもう一人のいとこや兄のノブが11月の連休 まだ 叔母が冗談も言えていたころに 
一度呼び戻したのです。
その時に「あぁ一番会いたくて 一番会いたくない人が帰ってくるのね」といったそうです。
叔母としてみれば 弱っている自分をみて 悲しい思いをさせたくなかったけれど でも実は
会いたくて会いたくて仕方がない人だったのでしょう。
連休が終わり見送る時にとてもさみしそうだった と母は言っていました。
もう一度会せてあげたい、、 期限の一週間が過ぎようとした頃 意識も混濁し始めて 一度
間違えて会社帰りに病室を覗いた私に「あっくん?」と聞いたのです。
やっぱり呼ぼうよ。。 ノブに伝えて 呼び戻すことになりました。
そして アキが帰ってきたことを確認して 安心して眠って アキが東京に戻った翌日 アキを待
っていたように 叔母は旅立っていきました。
ホスピスでは きれいに一番のお気に入りの着物を着せてくれて 花束を胸に抱かせてもらい
皆さんが見送ってくれました。
叔母の一家は まさに叔母が中心で回っていた家族で まだ寝たきりでも元気だったころ
本人が 自分の葬式の指示をして 叔父やノブたちが 遺影の写真 お棺に入れてほしいもの 
最後に着て旅立ちたい着物、お葬式に呼ぶ人リストなどを一生懸命用意し 本人に「これどうした
らええんかな?」と聞いていて 私たち緊迫した病状にもかかわらず 笑ってしまうことも。
最後まで 叔父は マイペースでちょっと耳が遠くなっているので 叔母から「もお お父さん」と
怒られてばっかり(笑)
亡くなる2日前 「死ぬのはちっとも悲しくないんよ」と 混濁した意識でいう叔母に「そんな わしら
がさみしいがな」という叔父。
そう 叔母は心配させまいとだと思うのですが ずっと「やりたいことはやったから思い残すことは
ない」と言っていました。
「もう目も見えなくなってきたわ」とうわごとのように言う叔母の顔をしみじみ見て 「お母さん 
こんなに目が離れとったかなぁ」の叔父の一言で 病室大爆笑。 
ずいぶんとこの一家の天然ぶりに救われました。
なくなる数日前から 叔父に泊まってほしいとわがままをいい ノブと交代で泊まりこみ
最後の時間を家族で過ごしたのでした。 
ホスピスというところは 死に際もドクターではなく家族だけが立ち会うのです。
うちは毎日誰かが付いていたけれど ホスピスでも週末しか家族が会いに来れないお宅も
あるらしく 一人で逝ってしまわれる方もいらっしゃるとか。
普段は 私たちは夜7時くらいに病室を後にするのですが 常に叔母は ナースコールを手から
離さず きっと動けない夜、冬の夜は長いので 不安で不安で仕方がなかったのだと思います。
手の感覚も徐々に鈍り 帰り際 私たちにナースコールをしっかり握らせてもらい何度も何度も
確認する叔母を置いて帰るのが忍びなかったのは今思い出しても悲しくつらくなる。
発病して旅立つ日まできっと叔母は毎晩 いつか来るその日を思って 不安で安眠できなかった
のではないかと思うのです。
今は眠れたかな。やっと。
ただ家族にとっては 1年間の執行猶予があったという感じでみんな 明るく叔母を見送りました。
アキは「お通夜の時は祭壇のバナナが落ちた 葬式は祭壇の花がぼてっと落ちた お母さんなん
か言いたいことあったんかな」と笑っていました。
いつものごとく 私と母の末妹のところの従弟タカが お通夜の受付を。
どうやらいつもこういう役回りは私とタカに回ってくる。
なぜだか叔母の死亡報告書も私が書きました。 
こうちの弟まーも 今回はちょっといい仕事をしたと姉は思った。
みんな大人になったなぁなんて。

叔母の唯一の心の残り。
ノブのところに結婚10年目にして 子供ができたのです。
それも双子ちゃん。 5月に出産予定。
叔母も私もノブが子供のころあまりに悪童だったので 絶対双子は男だよね。。と話していて 
でも叔母は心残りになるので子供の性別は聞きたくないといっていました。
その言葉通り なくなった翌日の検診で 双子ちゃんの性別が 女の子だとわかりました。
「おばちゃん 女の子だったわ 私いとこ全員男だったから やっとよ。 おばちゃんが私を
かわいがってくれたように産まれてきた子たち 私大事にかわいがるわ」そうお葬式の時に
心の中で伝えました。
神様はなんて皮肉なことを。。と思い 私など夫も子供もいないのだから 私の寿命を双子ちゃん
が生まれるまでの4か月分おばちゃんにあげてください。。そう真剣に祈ったのだけど 
叶わなかった。

あれから1か月。
叔母のうちに行くと みんなお母さんがいなくなったお留守番をしてる子供の用に なんだか頼り
ないのでうs。
私たちも含めて おばちゃんがいつも中心になっていろんな世話を焼いてくれて 叱咤激励してく
れて みんなが 頼りにしていたもんなぁ。
いつかいなくなったことに慣れるんだろうか。
うちも父がいなくなってもう20年たって普段の生活に父の居場所はなくなってしまった。
でもお正月や家族が改まってそろう時に やっぱりそこにその人がいないのは 何か足りない
気がする、多分一生そうなんだろうな。
私などきっと一人で死んでいく 自分についても考えさせられたここ数か月。
先を考えると怖くなる これからは大切な人とたくさんさよならしなければいけないんだな 
耐えられるかな でも私たちには生きていくという選択肢しかない。
だったらやっぱり楽しくすごしていくしかないんだろな。強くなるしかないんだろうな
ものすごく いろんな思いが廻った数か月。
最近同じような思いをした友人が何人かいて お互い気にかけたり 心強かったり。


亡くなる直前に 看護婦さんにお世話になったから クリスマスまでに焼き菓子か何かを届けて
ほしいとか お見舞いをもらっても返せないからと元気なうちにみんなから好評のチラシ寿司を作
ってお礼を配ったり 何かするといえばみんなの送迎やらお弁当作りを買って出た面倒見のいい
叔母
叔母の友人もまたがんになり 身寄りもないので治療を受けないという話を聞いて お互い
どちらが先に行ってもつらいからここでお別れをしようと 元気なうちに今生のお別れをした叔母。
潔く、義理深く、私もその強さと心遣いを見習いたいものです
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by yaesakura130 | 2013-01-20 22:59 | 暮らし 思うこと | Trackback | Comments(0)